2016年4月21日木曜日

中庸について

 何気にテレビを見ていたら、30人ひとクラスの子供達にスイミングを教える話をやっていた。どなたかのエッセイを静止アニメとともに朗読する国映放送の番組だ。なんとなく聞き流していると、なかなか興味深いことを話しているではないか。

 30人ぐらいの子供がいると、大抵1人ぐらいは水泳に高い特性を見いだせる子がいる。反面、一生懸命なのだけど、まるで適性を感じさせない子も1人はいる。そしてその2人を除いた残りの28人が中庸であるというのだ。その中庸くんたちは中庸なりにデキるデキないを競い合うように頑張っている。とまぁ、そんな内容だ。

 僕はこの中庸の競い合いに激しく惹かれてしまった。まさに僕のことではないか。マラソンとスイムの上達を目標にトレーニングしている訳だが、特にその能力に秀でているわけではない。ただ自己記録(PB)の更新、昨日の自分より1ミリでも前に出ようというモチベーションで頑張っている。

 そんな僕にとって大会とは、日々のトレーニングの成果を実証する場であり、トレーニングと称して支払っているさまざまな代価を徴収する場みたいなところがある。そして大勢の人が集まる大会とは、先程の国営放送のそれのように、中庸同士の競い合いを醸し出す装置をも兼ね備えていて、そんなシチュエーションだからこそ実力以上の力を発揮することができたりもする。その競い合いが既知の間であるならば最高級のオプションになりうるのだ。

 昨年はトライアスロンのミドルまでを経験することが叶った。自分の力量を見積もる意味合いもあって、完走目標で進めたレースだったが、それはゴールするのが惜しいくらい楽しい時間だった。そして、そこでやっと僕のエンデュランスに求める確信を得たのだった

 ハァハァ、ゼイゼイと身体を使いながら、今まで見たことのないような、脳裏に焼きつくような情景に身を浸すこと。たとえば海水の淡いコントラストの中を泳ぐこと。起伏に富んだ海岸線をバイクで疾走すること。風光明媚な自然の中を走ること。それらいくつかの情景を経て、まるで冒険をしているような感覚でフィニッシュを目指すそんな情感に辿り着くことが、トライアスロンへの挑戦だったり、フルマラソンの自己ベスト狙いだったりするのだ。それらを求めて日々駆け回り、目指すゴールはまだ遥か彼方だと、中庸なりに想いに耽ったりしているのだ。

 先週の佐渡トキマラソンは、風に雨にと極めて走りにくい環境を提供してくれた素晴しい大会だった。僕自身コンディションはいつもよりは良くなかった中、しっかりパフォーマンスを発揮できたと思う。それに僕一人ではなく、大勢の気の置けない仲間たちが一緒に参加していたこともとても励みになった。
 エンデュランスを初めて今年で5年目。中庸の頑張りはまだまだこれからなのである。

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